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近江八幡 ~ 日牟禮八幡宮から八幡山へ ~
2014-12-28 Sun 14:30
八幡堀のほとりをさらに歩いて行くと、ふたたび掘割に架かる白雲橋にたどり着きます。

八幡堀水景

日牟禮八幡宮の大鳥居
この橋は、”近江八幡”の地名の由来である日牟禮(ひむれ)八幡宮の参道の橋でもあります。

日牟禮八幡宮境内
白雲橋を渡り、本殿への入口となる楼門が見えてきました。門前にはたくさんの乗用車や観光バスが停まっていて、ここが近江八幡観光の一大ターミナルとなっている様子がわかります。

八幡宮楼門
八幡宮楼門

拝殿
拝殿と境内風景

本殿
本殿

負けずの鍔
境内には能舞台も設けられていて、その橋掛り(渡廊下)には、織田信長の時代の永楽銭を模した「負けずの鍔(つば)」という、左義長まつりのダシ(飾り物)が飾られています。なんとそのほとんどが、スルメや昆布、エイヒレなどの食材でできているそうです。
起源は宮中行事に求められるという左義長。現在も様々な呼び名で全国的に行われている正月の火祭りですが、ここ近江八幡市では毎年3月中旬に行われ、国の選択無形民俗文化財に指定される行事となっています。

八幡山ロープウェイ
日牟禮八幡宮のある八幡山の南麓からは山頂付近に向けてロープウェイが運行しています。こちらはロープウェイの山頂駅から、眼下の近江八幡市街を見下ろしたところです。市街地の南には瓶割山など、標高の低いなだらかな丘陵が点在しています。さらに遠くその背後に見えているのが滋賀県から三重県へと連なる鈴鹿山脈です。

八幡山の遊歩道
山頂駅からは旧八幡山城の郭(くるわ)の跡を巡る遊歩道を歩いていきます。

湖東平野の眺め
しばらく山道を上り八幡山城の西の丸址にたどり着きました。ここからは、山の西側に眺望が開けて、琵琶湖とその南に広がる平野の姿を一望することができます。

南の内陸側は古代に蒲生野(がもうの)と呼ばれた湖東平野の風景。満々と水を湛えた水田の海の上に、寺社の境内を包む鎮守の杜や集落を囲んだ林が浮き島のように散在する様子が目に入ってきます。

岡山方面
少し北側に視線を転じるとそこは湖水の景色。中央の小山は岡山と名づけられた丘陵。その右手には琵琶湖の湖面が広がり、間近にまで湖東平野の水田が続いています。
岡山の左斜め上、青い山腹を見せて続く山並みの中で少し小高く突起して見えているのが比叡山です。

長命寺山方面
琵琶湖の対岸で、屏風が折り重なるように続いて見えているのが比良山地。近江八景のひとつ、比良の暮雪(ひらのぼせつ)で知られた景勝の場所。
手前の琵琶湖に突き出た小さな岬から東へ隆起しているのが長命寺山。その麓の湖岸には長命寺港の集落が見えています。

西の丸址からは、空と湖と田園の青さが印象的な素晴らしい眺めを楽しむことができます。

北の丸址へ
続いて城址を巡る遊歩道を北の丸址へとたどっていきます。

安土山・観音寺山方面
北の丸址に出ました。ここからは八幡山の北から東側にかけての眺望が広がります。
中央に見えるふたつのなだらかな丘陵は観音寺山。その手前にあり、山容が観音寺山と重なって見える緑濃い小さな丘が安土山です。安土山は戦国の覇者織田信長の居城(安土城)の跡。一方の観音寺山は信長によって滅ぼされた近江源氏の名門、佐々木一族が本拠とした城跡です。
かつて覇を競ったつわものどもの夢の跡は今はのどかな山野の姿へと帰り、”国破れて・・・”の一節を思わせる晩春の景観を見せていました。

北の庄町方面
北の丸址から見た市街地風景。街なかでひときわ目立つ赤い屋根はウィリアム・メレル・ヴォーリズが妻の一柳満喜子とともに創立した近江兄弟社学園のキャンパスです。

村雲御所へ
この八幡山の山頂には豊臣秀次の生母、日秀尼(俗名:とも)の開いた瑞龍寺があります。
秀次切腹の後、髪を下ろして仏門に入った日秀尼が、我が子の菩提を弔うために、京都村雲の地に創建した日蓮宗の寺院です。瑞龍寺は昭和36年、京都から秀次ゆかりの地であるここ近江八幡の八幡山城址へと移転しています。

秀次公を偲ぶ
日秀尼は戦国の世で最も運命に翻弄された女性かもしれません。

彼女は尾張国の農村に生まれ、同じ百姓身分の夫とともに郷里で平穏な暮らしを送っていましたが、実の弟が天下統一を成し遂げた”豊臣秀吉”という名の権力者となってしまったために彼女の人生も大きく変転することとなりました。天下人の姉という身分に祭り上げられ、夫は十万石の諸侯に、長男の秀次は叔父秀吉の跡継ぎとして関白の地位を譲られるなど、彼女の一家は庶民の身から当時最高の権門の一族へと昇りつめます。しかし全て弟秀吉の意向に沿った”幸福”は、いわゆる「秀次事件」をきっかけに一転して悲劇の結末を迎えました。文禄4年、秀吉への謀叛の罪を咎められて秀次が高野山で自害、その妻子愛妾のほとんどは京都の三条河原で斬られ、日秀尼の夫も讃岐国へと流されます。秀次の弟たちはすでに病によって世を去っており、肉親のほとんどを失ってしまった日秀尼は失意の内に瑞龍寺に隠棲し、その後の生涯を仏門のなかに過ごすこととなります。

彼女は92歳まで長命し、弟の興した豊臣家の滅亡を見届けることとなりますが、彼女にとって豊臣の家など、ただ呪わしいだけの存在でしかなかったことでしょう。事実、豊臣家との断ち切れぬ因縁は生涯にわたって日秀尼を苦しめ続け、大坂城落城の折には孫娘のお菊(唯一生き延びていた秀次の遺児)が、豊臣方の間諜(スパイ)として処刑されるという悲劇に見舞われるのです。

瑞龍寺は関白秀次の悲運と、その母であり憂愁の生涯を送った一人の哀しい婦人の物語を今に伝えています。


村雲御所
日秀尼没後、瑞龍寺は皇族や摂関家の息女が入室する門跡寺院となり、村雲御所の別称で呼ばれました。高貴な女性たちが住まう隠遁の地となったためか、瑞龍寺の建物の造りや内装には古い公卿屋敷のような趣きが感じられます。

村雲御所より蒲生野を望む
瑞龍寺の一室からのぞむ湖東平野。窓外に広がる緑豊かな美しい風景に思わず息を吞んでしまいました。まほろばの地、そんな言葉を思い起こさせる豊饒の景色。大和絵に描かれた古き佳き里山の姿を目にしているようです。


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